まなびのまとめ

読んだ本、考えたことのアウトプットの場として

【読書】服従の心理 著者:スタンレー・ミルグラム

 

服従の心理 (河出文庫)

服従の心理 (河出文庫)

 

とても読み応えがありました。最後に書いてある翻訳者の見方も面白いです。

世の中には権威というものがたくさんある。生まれたころは親、学校、会社、国など言い換えると自分が信じている対象と言ってもいいのかもしれない。人は何かを信じなければ行動はできない。水道に毒が入っていないと信じてるからこそ水道水は飲めるし、橋が崩れないと信じるからこそ橋を渡る。医者から処方された薬は黙って飲む。ただ信じている対象が本当に正しいかどうかの自分(もちろん他人の多角的な視点)で判断しないと、ただ権威に服従するだけになってしまう。権威が正しかった場合は、服従して幸せになるのかもしれないが、間違っていた場合は不幸になる。権威がある人も等しく人であり、人には絶対というものはない。すべてを疑うことはできないが、健全な懐疑心を持つことは大切なんだと思う。信に値するものはなにかを行動を通して学んでいく必要がある。

 

本書の内容は、実験者、学習者、被験者の3つの役割があり、実験者と学習者はグル。

学習者が問いを間違えると被験者が学習者に対して電流を流し(実際には流れていない)、学習者が間違うごとに電流の強さを強くすることを実験者から指示される。強い電流を流すと学習者が実験を中止するように依頼するが、実験者は実験を続けるように指示。被験者がどの強さの電流まで流すか色々なパターンを用意し実験をする。実験の内容・結果・考察がまとまってる。

 

以下本文(ページ数はkindle版)

/////////////////////

服従の本質というのは、人が自分を別の人間の願望実行の道具として考えるようになり、したがって自分の行動に責任をとらなくていいと考えるようになる点にある。この重要な視点の変化がその人の内部で生じたら、それに伴って服従の本質的な特徴すべてが生じる。考え方の調整、残酷な振るまいの野放図な実行、そしてその人物の体験する自己弁明などは、心理学の実験室だろうとICBM発射基地の司令室だろうと、本質的には似たものとなる。(p.71)

自分で会社を興すか、理念に共感して会社に勤めようと思わない限りは、他の人間の願望実行の道具になってるのかな?会社や組織内でも、もちろん自己実現は可能だし喜びは感じられる。ただ、自分の願望を実現するために行動できている人は少数なのかもしれない。

人類の長く陰気な歴史を考えたとき、反逆の名のもとに行われた忌まわしい犯罪よりも、服従の名のもとに行われた忌まわしい犯罪のほうが多いことがわかるだろう。 (p.132)

 

服従的な被験者で一番多い調整は、自分が自分の行動に責任がないと考えることだ。(p.239)

 

 実験のほとんどの被験者は、もっと大きな博愛的で社会的に有用な目的―科学的心理の探求―の一部としてとらえていた。(p.272)

 主語が大きくなると行動が正当化される。

 

アイヒマンですら、強制収容所を視察したときには気分が悪くなったけれど、でも実際に大量殺人に参加するにあたり、かれは机に向かって書類をやりとりすればいいだけだった。(中略)

したがってここには、人間行動総体の断片化がある。邪悪な行動を決断してその帰結に直面しなければならない一人の人物というものがいない。行動の全責任を負う人物が消え去っている。これこそ現代社会で、社会的に組織化された悪にいちばんありがちな特徴かもしれない。

したがって服従の問題は、心理学のみにとどまるものではない。社会の様式と形態や、その発展の仕方も大いに影響する。あらゆる状況に人が人間として完全に関わり、したがって完全に人間的な反応を行えた時代が、かつてはあったのかもしれない。だが分業が始まると同時に、状況は変わった。きわめて狭くきわめて専門化した仕事を行う人々に社会を分割してしまうのは、ある点を超えると仕事や人生の人間的な性質を奪ってしまう。人は全体像を見ることができず、そのごく小さな一部しか見えないため、全体としての方向性をもって行動できなくなってしまう。権威に服従するが、その結果として自分自身の行動から疎外されてしまう。(p.306)

うーん。。。断片化により個々が責任を感じづらくなることは確か。ただ分業することによって効率は高まるんだろうな。

全体感や目的を意識して行動することが大事。ただ一番難しいのは、ほとんどの場合その目的が正しいと思って行動すること。これほんと難しい問題。

現代社会の定義はわからないけど、社会が組織化された時点から断片化の問題は起きてる。処刑する人もただその命令に従っているだけとか。「完全に人間的な反応を行えた時代」はいつだろ。

 

今回の反応の理由は、行動が社会にヒラルキーの高い方から低い方に流れるからだ。被験者は自分より高いレベルからくる信号には反応しやすいが、下からくる信号には無関心なのだ。(p.1805)

 本の中にも例があったけど現実社会でもそう。場合によっては、何を言うかより誰が言うかの方が大事だったりする。会社の根回しとか、他の部署の調整とかで役職が上の人から伝えてもらった方が仕事が円滑に進むのはこれに当てはまると思う。

 

まず分析の手始めとして、ヒトが単独ではなく、ヒエラルキー的な構造の中で機能するのだということを考えよう。(中略)

ヒエラルキー的に組織化された集団の形成は、物理環境のもたらす危険や、競合生物種からの脅威、内部からの潜在的な分裂に対応するにあたり、そのように組織されてた者たちにすさまじい優位性をもたらす。(p.2026)

 

実際、ここで提案しているのは単純に服従本能があるというものではない。むしろヒトは服従の潜在能力を持って生まれてくるのであり、それが社会からの影響と相互作用して、服従的な人を作り出す。この意味で、服従能力というのは言語能力のようなものだ。(p.2051)

 

エージェント状態は、服従を言い換えたにすぎないのだろうか。いいや。エージェント状態とは、服従の可能性を高めるような、精神的組織の状態なのだ。服従は、その状態の行動面となる。(p.2437)

 エージェントって言葉自体はじめてみました。日本の一般的な企業に勤めてる場合はエージェント状態なのかな?会社命令で転勤はよく聞く話だし。

過労死などの悲しいニュースも時々目にするが、精神的に逃げ場がないとてもつらい状況なのだと想像できる。

 

正当化の方法の一つは、最後まで続けることだ。もし中断したら、かれは自分にこう言うことになるからだ。「これまで自分がやってきたことはすべて悪いことだった。中断することはそれを自認することだ」。だがもし続けるなら、過去にやったことは裏付けを得ることになる。(p.2467)

 エージェント状態にとどまる理由。オカルト信者が信じ続ける理屈と同じかと。

一部の人は、ナチの例をまじめに考えようとしない。われわれは民主主義社会に住んでいて、専制主義国家にいるのではないからだ。でも現実にはこれで問題がなくなるわけではない。というのも、問題は心理的態度群あるいは政治的組織の一種としての「専制主義」ではなく、権威そのものだからだ。(p.2988)

戦場へ送り込まれる間に、権威はかなり苦労して、兵士の行動の意味合いを、社会全体のもっと大きな目的や、認められた理想に結び付けるように定義づける。新兵は、戦場で出会う敵は国の敵であり、連中を破壊しない限り、自国が脅かされるのだと教わる。残酷で非人道的な行動が正当化されるような形で状況が定義される。ベトナム戦争では、もう一つの要因が残酷な行動を容易にしていた。敵は人種がちがったのだ。ベトナム人たちは、まるで人間以下で同情に値しないとでもいうように「グークども」と呼ばれるのが常だった。(p.3004)

日本の戦争時もそうだし、少年兵の問題もそう。

思想が狂うと、残酷な行動も正当化される。

その日一日を切り抜けて生き延びるだけでも一苦労なのだ。道徳についてなど心配している暇はない (p.3004)

命令が正当な権威からきていると感じる限り、かなりの部分の人々は、行動の中身や良心の制約などにはとらわれることなく、命じられた通りのことをしてしまうのだ。(p.3142)

その教訓というのはつまり、しばしば人の行動を決めるのは、その人がどういう人物かということではなく、その人がどういう状況に置かれるかということなのだ。(p.3444)

賢明なリーダーがいない組織や相互監視が正常に機能していな組織はうまくいかないということかな。

 

理想的な状況は、服従がないことではない。社会が(それなりの相互監視やチェックシステムにより)各種権威をきちんと信頼できるものに保ち、人々はその信頼を前提として、おおむねその権威の言うことに安心して服従する、といういまの社会と大差のない状況が、いちばん穏健かつコストも低くて望ましいものだろう(p.4265)

訳者のあどがきから